浅草橋の問屋街としての歴史

浅草橋と言えば、近隣の蔵前やかっぱ橋と同じように国内でも有数の問屋街として多くの人に知られています。特に人形、玩具、文具、店舗装飾などを専門とする問屋は現在でも数多く存在し、小売商を始めとした多くの人が利用しています。

そんな問屋街としての浅草橋の歴史は、江戸時代の中でも享保年間(1716~1736年)にまでさかのぼる事ができます。当時この場所は浅草茅町と呼ばれており、雛市が頻繁に開催されていました。そのため、この地を中心に雛市で売られる雛人形や五月人形などを取り扱う問屋が増えていったと言われています。このような江戸時代創業の老舗の人形問屋の多くは、関東大震災や東京大空襲を経た現在でも浅草橋周辺に軒を連ねています。

一方で、人形だけでなく玩具、文具、店舗装飾などを取り扱う問屋が多く存在する現在の浅草橋の姿が形成され始めたのは昭和30年代頃とされています。戦後復興から高度経済成長への過渡期にあたるこの時期は、人々の生活が豊かになり始め、商売や子どもの教育などにも一層力を入れる事が可能になり、これらの問屋街が発展した要因と言う事ができるでしょう。また、この時期には問屋街周辺を走る都電やトローリバスなどの交通手段が最盛期を迎え、より多くの人がこの問屋街を訪れやすくなったと言う事もまた、問屋街としての浅草橋発展に大きな影響を与えたと言えそうです。

平成の不況期に入ってからも一定の需要を維持し続けた浅草橋の問屋街は、現在では若手のクリエーターが活躍する場としての一面もあり、歴史ある物と新しい物が融合した町として現在も発展し続けています。